特別な日


物理準備室は甘ったるい匂いが充満していた。
原因はコンロの上の鍋にある。何かを火にかけているらしい。何をかけているんだろう。
でも、たぶんそれだけじゃない。机の上にこれでもかってくらいのった色とりどりの包みたち。あれらからも匂いがもれているんじゃないかな。自らを主張する匂いが。
「嫌みじゃないかってくらいもらってんだな」
「そんなことないよ」
ソファーに座ったおれの言葉の方がよっぽど嫌みくさい。それを相手はなんなく受け流した。
何やら鍋をかき回しているのは物理教師だ。でも、それ以上におれにとっては幼なじみ。のはず。それは相手にとっても同じはずで、だからおれは教え子のしがない男子高校生ってだけではないはずだ。…きっと。
「コンラッド」
「先生でしょ、渋谷くん」
「…いいじゃん、他に人いないんだし」
「何、ユーリ?」
「んー」
コンラッドに名前を呼ばれるのが好きだ。とてもこそばゆい気持ちになる。ドキドキする。
昔はこんなことなかったのに、いつからだろう。
「チョコどうするの、そんなにもらってさ」
今日はバレンタインだ。校内好感度ナンバーワンの彼は女子高生たちにこれでもかってくらいチョコレートをもらったのだ。教え子が教師にとはいえ義理チョコとは限らないらしい。ぱっとみただけでも女子高生らしかぬブランド物の包みや気合いの入った手作りらしい包装が目に入る。
「うーん、どうしようかな。一人じゃ食べきれそうもないしな、ユーリも一緒に食べる?」
「バカ。もらったもんを人にわけるなよ」
「でも駄目にするのも申し訳ないでしょう」
「そうだけどさぁ、誠意ってもんがあるだろー?」
「そういうのは本命にだけ見せればいいんだよ」
「その発言は教師らしくないぞ」
コンラッドにチョコをあげた女子高生たちの気持ちをないがしろにしている気がする。だけど、コンラッドは軽く笑っただけだった。
しかし、もてるのは知っていたけど、こんなにもらうとは思っていなかった。
実はおれの鞄の中にもチョコがある。ただの板チョコだけど。残念ながら貰い物ではない。今朝コンビニで自ら買ったのだ。なんとなく、冗談ぽくていいから渡せたらいいなって思って、コンラッドに。
でも、あのチョコの山を見てしまえば、とても渡すことはできない。
ままならないな、と俺はため息をついた。
「どうしたんですか、ため息なんかついて」
「べっつにー、モテ男はいいなぁと思って。どーせおれはチョコのひとつももらえませんでしたよーだ」
「美子さんからもらえるでしょう?」
「おふくろからなんて数に入るかよ」
「まあ、そう言わずに。はい、これ」
コンラッドはかき回していた鍋の中身をカップにいれておれの前に置いた。クリームブラウンの液体から湯気がたっている。
「なにこれ」
「おいしいよ」
答えになっていないと思いつつ、口をつけた。まったりとした甘味が口の中に広がる。
「うまい。ココア?」
「んー違うよ。チョコレートをミルクで溶かして作ったんだ」
「…チョコレートを?」
「うん」
「…なんでわざわざそんな面倒なことを」
「ユーリに飲んで欲しかったからだよ」
「…おれに?」
「そう、ユーリだけ特別に、ね」
「…なんで?」
「バレンタインだから」
当然のことのように微笑んでコンラッドは言った。
鞄の中の板チョコがコトリと音を立てた気がした。




甘い日。
(11.02.14)

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