夏休みの校舎は人気がない。遠くから部活動をする生徒たちの声がうっすらと聞こえてくるだけだ。 静かな教室におれは一人でいた。空調は効いておらず、額にはうっすらと汗がにじんでいる。 けれど、暑さは好きだ。夏という季節が好きだ。おれと彼を繋ぐ季節だから。 夏休みも好きだった。一昨年までは。 彼は─コンラッドは、おれの隣家に住む八歳年上の幼なじみで兄貴分だった。おれは実の兄である勝利よりもコンラッドになついていて、コンラッドもまた実の弟のようにおれを可愛がってくれた。 夏休みなんかの長期休業はいつもコンラッドと一緒に遊んでいた。彼は色んなところへ俺を連れ出してくれたし、キャッチボールにもいつも付き合ってくれた。年の差はあれど、最高のバッテリーだったと思っている。 だけど、去年、コンラッドは高校教師として就職してしまった。まとまった休みは盆休みくらいしかなく、後は当直だの何だので仕事にでかけている。帰ってくる時間も遅くなった。 だから、夏休みもつまらなくなった。そりゃ、つまらない授業がないのはうれしいけど。コンラッドがいない夏休みは味気なかった。 そんなわけで、いつもだったら興味もない図書館の開放日に登校してきてしまった。コンラッドがいるからと必死になって受験勉強して入学したこの高校の図書館に。 だけど、活字に興味のない俺は早々に飽きてしまって、フラフラと誰もいない教室まで来てしまった。特にすることもないんだけど。 とりあえず、自分の席に座ってはみたけど、どうしようもない。また、ふらりと立ち上がり、教壇に立ってみた。いつもコンラッドが立つ場所だ。教室を一回り見てからため息をついて降りた。 それから、黒板に向かう。夏休み前の一斉清掃で掃除された黒板はきれいだった。白いチョークを手にとってみる。 気づいたのは些細なことがきっかけだった。 若くて男前なコンラッドは生徒に人気があって─特に女子に─クラスの女子たちがふざけあって書いていたのだ。自分たちとコンラッドとの相合傘を。 淡い夢をみる乙女たちには悪いのだが、正直イライラした。どうしようもない焦燥感に捕らえられ、気づいたのだ。 この気持ちが、ただ兄貴分を慕うだけの好きではないことを。もっと熱くて、もっと苦しい。痛いくらいの、特別な気持ちだと。 始めは自分で自分が信じられなかった。おれは自分のこと、ノーマルだと思っていたし、女の子のことを好きだと思ったこともある。だけど、気づいてしまったからには疑いようがなかった。 手にとったチョークで三角形を描いてみる。その下に縦線を引けば傘の出来上がりだ。そして、三角形の真上にハートマークを付け足す。少し気恥ずかしい。 左傘の下にそろり、コンラッドの名前を書いた。濃い緑色に白い文字が映える。 ごくり、喉がなる。 右傘の下に自分の名前を書こうとした。『ユーリ』と彼がおれを呼ぶ呼び方で。 そのとき、教室の後ろのドアがカタリと鳴った。 ハッとして振り返る。とっさに身体で未完成の相合い傘を隠す。 「渋谷、来ていたんですか」 ドアから覗いたのは、よりにもよって今まさに思い浮かべていた顔だった。 「コ、コンラッド…」 「コンラッド『先生』でしょう? 学校なんだから」 「…夏休みなんだから、いいじゃん。コンラッドこそ、おれのこと渋谷なんて呼ぶなよ」 コンラッドが教師になって一番嫌なのはこの呼び方だ。そりゃ、他の生徒と同じ扱いをしなきゃならないのはわかるけどさ。他人行儀なしゃべり方もよくない。 「でも、俺は仕事中だよ、ユーリ」 それでも、改めてくれる。そんなところも好きだと思う。 「図書館に来ていたんですか?」 「あー、まあね」 「ユーリが? 珍しい」 「なんだよ、悪いかよ」 「いや、いいことだよ」 早く行ってくれないだろうか。いや、一緒に話したりできるのはうれしいんだけど、背にした相合傘が気になってしかたない。もし、見られたりなんかしたら…。 「ユーリ? どうかしたんですか? そんなに黒板に張り付いていると粉がつく」 なのに、どうして教室に入ってくるんだろう、こいつは! 「な、なんでもない!」 「そうですか? でも、」 「わあああああ!」 近づいてくんな! ひょいって、おれの後ろを覗こうとすんな! バッと手で隠してみたものの絶対に見られた。あきらめて黒板から背中を離す。 「な、なんか描いてあった」 「…そう」 「なんだろう、女子がふざけて描いたのかな? コンラッド、モテるから…」 そう言ってみたけど、コンラッドがおれの字をわからないわけがない。どうしよう、どうしたら…。 「でも、これは…。あ、いや、何でもない」 ―あ、あれ? もしかして、これはなかったことにされたってこと? それって、それって…。 「…コ、」 「ユーリ?」 「コンラッドの、バーカぁ!」 「ちょ、ユーリ?」 そのまま教室を出て駆け出した。 下手な断り文句よりも、ふざけたと笑われるよりも、見なかったことにされたのが、一番腹が立つような気がした。 後ろから追ってこないことを確認して、それをわずかに悲しくも思いながら立ち止まる。廊下の壁に背をつけてズルズルと座り込んだ。走ってかいた汗が気持ち悪い。 心臓が痛い、切ないくらいに。 全部、コンラッドが悪いって、泣きそうになりながら思った。 ユーリが走り去った出口を見つめて、俺はしばらくの間たたずんでいた。 追いかけるべきだったろうか、だが、追いかけていって彼に何を言うというのだろう。 黒板に向き直り、チョークで描かれた相合傘をなぞる。 ユーリは知らない振りをしていたけど、これはどう見たって彼の字だ。俺が見間違えるはずがない。 ユーリの気持ちはなんとなくわかっていた。だから、無理にこの相合傘を見たのだ。 でも、彼の気持ちに応えることはできない。 それはユーリがかけがえのない弟分であるからとか、俺が教師だからとかでなく、ただ怖いからではないかと思う。変わっていくのが、変えてしまうのが怖いから。 ふっと自嘲気味に笑みが浮かんだ。何を自惚れているのだろう。 それから、黒板消しを手に取り、相合傘を消した。 ─消してしまった。
自分で書いていて次男がどうしようもないやつだなと思いました…。
(10.08.21) |