ホテルの居室の電話が鳴るのは想定済みだった。いや、本当は何の気もない振りをしながら、今か今かと待ちわびていたのだ。 ようやく鳴ったときは、喜びに震える胸を抑えつつ、冷静な声色になるよう努力しながら、電話を取った。ここへ掛けてる心当たりなど一人しかいない。無論、その内容も。 想定外だったのは、電話先の声だった。 『お、コンラッドか?』 「……ショーマ、どうしてここの番号を」 『ボブに聞いたんだよ、報告ついでにな。一言物申したくて。ていうか、良いホテルに泊まってるな、おい』 「報告って……いや、ええと、何か用かな?」 訊ねたいことは一つだけだった。だが、何がそうさせたのか、はやる気持ちを抑えてとぼけてみせた。しかし、彼にはお見通しだったようだ。 『わかっているんだろう? ……無事に生まれたよ、男の子だ』 「そう、よかった。……よかった」 安堵が息とともに吐き出される。 生まれたのだ、あの、真っ白で完璧な球体が、ついに。 『まあ残念ながら羽はなかったけどな』 「羽?」 『いや、こっちのこと。そうじゃなくてさ、お前だろう、嫁さんとタクシー相乗りしてくれたさわやかーなフェンシング選手? ってのは』 「……ええと」 どうやらバレバレだったようだ。 『おかげさまで母子ともに健康で何よりなんだけど。てか、そこまでするんだったら、生まれるまで見守れよな』 「病院まで行ったんだ。あとは医者に任せるしかないだろう」 『だからそうじゃなくてぇ、いや、そうだ、そうじゃないんだよ』 何かを思い出した様子の彼は、不満そうな声をだした。そして、重大なことを言う。 『……あんたが名付け親だ』 「え?」 『ユーリ。ユーリって名前にするんだって嫁さんがきかなくてな』 「……それは、」 ――夏を乗り切って強い子供に育つから、七月生まれは祝福される。 ――俺の育った故郷では、七月はユーリというんです。 『あーあ、名前をつけるの楽しみにしてたんだけどなぁ。まさか命名権を取られちゃうとはなぁ』 「いや、あれは、そういうつもりではなくて……」 なかったけれども。でも。 ――ユーリ。 口には出さずにその名前を呟けば、戸惑いとともに嬉しさが沸き上がってくる。 なんて、すばらしい名前なのだろう。 『まあ、いいけどな。ユーリって読める漢字を選ぶのは俺の役目だし、さすがにそれはコンラッドにもできないだろう? 見てろよ、すんばらしい漢字をあてがってみせるからな』 「ああ、楽しみにしている」 素直にそう返すと、電話先の彼は数秒黙った。それから、改まった声が聞こえる。 『ありがとう』 「ショーマ?」 『嫁さんと赤ん坊を守ってくれてありがとうな』 それは、お礼を言われるようなことではない。役目だったから、当たり前のことをしたまでだ。 むしろ、感謝すべきなのは―― 「……いや、俺のほうこそ、……ありがとう」 電話を切ったあと、空調の効いた室内からベランダへ出た。ボストンの夏は故郷の夏よりも暑く、夜になってもまだ少し蒸し暑い。 昼間に見た夏の日差しを思い出す。きっと彼もあの日差しのように眩しいだろう。ショーマや彼の奥方のように素直で気持ちよく笑うだろう。 不思議な感覚だった。今までと変わらぬ世界のはずなのに、すべてが美しく感じられる。 いや、変わったのだ。――ユーリがいる。 もうショーマが心配することはない。気がつくと頬が緩んでいるのだ。ユーリを目の前にして無愛想な顔を見せることなどできるはずがない。 世界を旅しよう。こちらの世界、あちらの世界、どちらも巡って、様々なことを知らなければならない。いつの日か、その知識を彼へ与えるために。 彼がすべてを手に入れられるように。 世界を手に入れられるように。 それはふつふつと湧いてくる願いだった。王としてはもちろん、おそらく親が子へ願うように、ユーリにはすべてを手に入れて欲しい。 ――そのためならば、何を犠牲にしても構わない。 これから先は彼のために生きよう。 ユーリを愛そうと思った。
2013夏コミ無配再録。
(13.08.17) |