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選択肢は二つだった。鈍行オンリーか格安高速バス。アルバイトよりも草野球に勤しんでいる貧乏高校生だ。新幹線はおろか、在来線の特急券を買う金もない。高速バスは安いけれど、目的地は最寄りのバス停からとても遠くて、さらに路線バスか電車を一時間近くも乗り継がなくてはいけない。だったら最初から最後まで電車で行こう。というわけで、私鉄と在来線を五度も乗り継ぎ、四時間以上も掛けて彼が住む土地へやってきた。
空調が良く効いた車両から降りる瞬間、むわっとした夏独特の蒸した空気を覚悟したが、すぐにそんな心配をする必要はなかったことに気がつく。一つ前の乗り継ぎでもわかっていたはずなのに、いつの間にか習慣というか癖になっていることもあるものだ。
日差しは眩しく照りつけているが、気温と湿度が埼玉とはまったく違う。吹き抜ける高原の風が心地よい。さすが日本一標高が高い駅……の何駅か隣のことだけはある。何駅かと言っても都会の感覚とは違い、とても歩けなそうなくらい離れているのだけど。
その数駅前のさらに何駅か前の名の知れた避暑地ではたくさん人が降りたが、そこから先は一人、二人が乗ったり降りたりするだけで、車内に人はまだらだった。そして、この駅で降りたのはおれだけ、乗った人もいないようだ。さすが都会では考えられない二両編成、降車乗車が把握できてしまう。というか把握できなくてはいけないのだろう、車掌が降りてきて切符を回収していった。どうやらここは無人駅らしい。
劣化したコンクリートのプラットホームを歩くまでもなく、小さな駅舎の改札口と呼ぶしかない建物の入口に立つ背の高い男の姿が目に入る。白いポロシャツを着た彼は、高原にふさわしいさわやかな笑顔をおれに見せた。
「いらっしゃい、ユーリ。久しぶりだね」
途端、視界が複数の色でチカチカした。世界がひっくり返るような、景色が反転する感覚。違和感が身体中を駆け巡る。
だが、そう感じたのは一瞬で、すぐに景色は元に戻った。ここは田舎の駅で、夏で、空は青くて、目の前の男は心配そうな顔をしている。
「どうかした? ずっと冷房の効いた車内にいたから気分が悪くなった?」
「そんなことないよ。ここ、埼玉よりずっと涼しいし。ちょっとクラッとしただけだって」
「そう? ならいいんだけど……。夜はもっと涼しいよ、サイタマと比べたら寒いくらいかもしれないな」
「いいなぁ、それ。暑いのは好きだけど、さすがに連日熱帯夜だと寝苦しくて。でも、クーラーは入れたくないし」
「肩を冷やすのはよくないから、ね。立ち話も何ですし行きましょうか。表に車を停めてある」
「コンラッド、日本でも車の運転できるんだ」
「ここら辺では車がないと生活できないよ。バスはあるけど本数は恐ろしく少ないし、バス停から家まで結構歩くしね」
さあ、とおれをうながした男は肩に掛けていたボストンバッグをさりげなく奪い、腰に手を回してきた。自然すぎる、あきらかにエスコートし慣れている。やっぱ、外人は違うなぁと感心するが、男子高校生にする意味はわからない。習性だろうか。
彼は――コンラッドは、一言でいえば変わり者なのだと思う。ドイツ系アメリカ人(という言い方で合っているのだろうか)でまだ二十代前半なのだが、一年ほど前、急に来日し、山の中で自給自足に近い生活をしているらしい。
初めて会ったのは、彼が来日してすぐおれの家へ来たときだ。とおれは認識しているが、実は物心が付く前に何度か会っているらしい。そのことは親から、特に母親から聞かされていた。何でも、彼はアメリカのボストンで外出中に陣痛が始まって今にも生まれてしまいそうな状態の母親を機転で救ったらしい。そのとき彼はまだ幼かったはずなのに、よほどしっかりした子どもだったのだろう。そしてふと口に出した言葉から生まれた赤ん坊の名付け親になってしまい、つまりその赤ん坊とはもちろんおれのことで、ようするに彼はおれの名付け親なのだ。『有利』と親父がひねりがあるんだかないんだかわからない漢字をあてたせいで、さんざんからかわれはしたが、彼のエピソードとともに名前の響きは気に入っている。
彼の車は薄いブルーの普通の乗用車だった。駅前にはいくつか商店があったが、そつのない運転で進むごとに家は少なくなり、広大な畑だらけになった。詳しくないけど、だいたいがレタス畑だったと思う。そして、いつしか畑もまばらになり、深い緑の中の山道を走っていた。