* 彼の愛した黒猫

・4〜7頁より

 夜になるとさまよわずにはいられなかった。
 昼間はいい。与えられた仕事をこなしていれば時間は過ぎる。けれど夜は、一人の夜は、彼女を思い出してしまう。あの優しい笑顔がどうしても心に浮かんでしまう。そうなってしまえば、もう落ち着いてなどいられない。どこへ行くあてなどはないが、ただふらふらと夜の街をさまよい歩く。そして、くたくたになった頃、ようやく部屋に戻り、眠りに落ちる。否、そうしなければ眠れないのだ。
 もう随分長いこと笑っていない気がする。こんな毎日を繰り返す意味はあるのだろうか。終わらせてしまってもいいのではないだろうか。……死んでしまってもいいのではないか。
 何度も自分へ問いかけたが答えはいつもNOだ。
 自分に死ぬ資格などない。あるとすれば、それは彼女に愛されていたあの男だけだ。愛されていなかったコンラートが死んだところで、天国の彼女は困るだけだろう。
 だから、コンラートは今夜も一人、夜の街を放浪する。ふらふらと、あてもなく、ただ。
 車線を走る自動車のライトすら煩わしく感じた。目についた薄暗い路地に逃げ込む。
 いつまでこんな日々が続くのだろう。いつになればこのしがらみから抜け出せるのだろう。永遠に救われる日はこないのだろうか。命が続く限り終わらない日々を思うと発狂しそうになる。
 路地の先は行き止まりだった。まるで自分の人生が行き着く先のように思えてコンラートの口元は醜く歪んだ。――馬鹿みたいだ。
 行き止まりの壁に背を向け寄りかかった。ずるずるとそのまま座り込んでしまう。
 もう疲れてしまった。もう何も考えたくない。家にも行かず、仕事にも行かず、このままここで……。
 何もかも放棄しかかったとき、それは降ってきた。
 頭に強い衝撃を受ける。一瞬、目の前が真っ白になったがすぐにもとの暗闇に戻った。
 ――何だ?
 落ちてきたものが飛んだ先に視線を向ける。威嚇する高い鳴き声が聞こえた。目を凝らして見ると闇に混じって小さな身体があった。全身を毛をたたせ、長いしっぽを膨らませた――黒い子猫だった。
「……そんな、怖がる必要なんてないのに」
 怯えている子猫に言うでもなく呟く。
 ここにいるのは無力で何もできない男なのだ。死ぬこともできないが生きている価値もない。きっと目の前で敵意をむき出しにしているこの猫のほうが何倍も勇敢だろう。
 無気力なコンラートの様子に子猫は威嚇するのをやめたらしい。膨らんでいたしっぽを落ち着かせ、首を傾げている。そのまま去ってしまうだろうと思った子猫だったが、何を思ったのかそろそろと近づいてきた。コンラートの近くまで来て止まると小さく鳴いた。心配しているような声色だった。
「こんな子猫に心配されるなんて……」
 自嘲するコンラートのだらりと伸びた手に子猫は頭を擦りつけてきた。生きている暖かさに胸が熱くなる。もう随分長いこと温もりに触れていなかったから、涙が勝手に溢れてきて止まらなくなった。
 嗚咽をもらしはじめたコンラートを子猫は不思議そうに見つめていた。彼女が亡くなって以来初めて、ようやくコンラートは泣けたのだ。
 子猫の小さな身体をコンラートは抱えあげる。子猫の瞳は毛色と同じ深い黒で、その視線は存外に力強かった。
「……ユーリ」
 口から出てきたのは亡くなった彼女と同じ由来の名前だった。きらきらと強く輝く生命に満ち溢れた夏の暑い月。ぴったりだと思った。
「ユーリ」
 暖かい身体をそっと胸に寄せ、抱きしめた。
 もしかしたら、ただ生きる理由が欲しかっただけなのかもしれない。
 けれど。
「ユーリ、俺と一緒に来てくれる?」
 子猫は肯定するように一声鳴いた。




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