また明日


 雨は止んだようだ。いつにも増して静かな夜に、眠気は全く訪れては来なかった。
 だからレポートが終わってからも、電気を消す事無く積んでいた本に手を伸ばした。母から薦められた、自発的には読まない類の本だ。
 最初の数ページは参考書でも読んでいる気分だったが、次第に読み耽っていたのだろう。いつの間にか奥付まで辿りついていたのだから。
 聞き慣れた鳥の囀りが、いかにもな朝を演出していた。昨日とは打って変わって快晴だ。
 空気の味を知りたくて窓を開けると、風が吹き込んでくる。徹夜明けの目には少々痛かったが、水滴が太陽を反射してきらきらと綺麗だった。
 これは物語の続きなのかもしれない――などという発想は、普段ならば出て来はしない。それでも今日は違ったのだ。世界が違って見えるというのは大袈裟だが、それに近いものを感じていた。ささやかな非日常が訪れる予感に胸躍る。
 爽やかな気分でアスファルトの大きな水溜りを眺めていたら、それが突然跳ねて驚いた。なんてことは無い、車輪がその上を走っただけの事だ。
 少し目線を動かすと、家の前で止まった自転車の持ち主と目が合う。身なりと持ち物を見れば、彼がどういった仕事をしている人かは一目で判った。
「お疲れさま」
 声をかけたのは気まぐれだ。読んでいた本の影響か、今なら無機物にも優しくなれる気がする。まあ、それも寝て覚めれば失くしてしまう程度の気持ちなのだが。
「……あんた早起きだな」
 警戒されているのかと思ったが、単純に驚いているようだった。あまり人見知りはしないらしい、逸らされない瞳が教えてくれている。
「おれと一緒だ」
 ふわりと微笑むと、彼はより幼く見える。実年齢は子供とは呼べないのだろうに。
「晴れて良かったですね」
 雨天時の配達を想像すると、大変だろうと同情心が湧いた。けれど彼は、門の前にある郵便受けに配達物を押し込みながら「そうだな」と軽く返す。
「雨だったらあんたに気付かなかったかもしれないし。ああ、仕事中に人と話すのって滅多に無いんだ。なんか嬉しいや」
 気持ちの良い人だと思った。こんな朝にぴったりな。
 現実味の無さを引き摺るのは、きっとそのせいだ。もっと無愛想な受け答えをされたなら一瞬で覚めただろうに。
「本が好きなのか?」
 何故そんな事を訊かれるのか不思議だったので首を傾げると、人差し指が伸びた。先程読み終えた本を未だ片手に持っていた事を忘れていた。
「……読みますか? 良かったら貸しますよ」
 初対面の見ず知らずに言うような言葉ではない。そう自覚しながらも口に出していた。
 不審がられないだろうかと一瞬ひやりとしたが、意外にも「良いのか?」と手を伸ばしてくる。
「勿論。少し易しいものだけれど」
「そっちのが有り難いや。読み終わったらすぐに返すよ。ああでも、あんたは毎日早起きしてるわけじゃないよな。いつなら良い?」
「いつでも。起きているから、声かけて」
 どうして嘘を吐いたのか自分でも分からない。けれど彼が嬉しそうに頷いたので、そう答えて良かったのだと納得してしまった。



 それから俺は早起きを始めた。
 今までの不摂生が祟ってか試みは一日目で折れそうになったが、あれから毎朝同じ時間に窓を開ける事が出来ている。嘘を吐いたままにしたくなくて、らしくもなく努力をした。
 三日後には貸した本が返って来たから、また違う本を渡した。そこで繋がりを切りたくないから。
 彼は一言も感想を口にしなかったけれど、満面の笑顔でありがとうと言った。
 俺は彼が楽しんでくれるような本を探す為に図書館に入り浸り、出来るだけやさしい本を探した。可笑しいだろう、渡す相手は成人男性だというのに。昔馴染みは遠慮も無く滑稽だと笑ってくれた。



 いつも窓を開けて待つ俺を見かねてか、最近では来た事を教える為に自転車のベルを小さく慣らしてくれる。
 迷惑にならないようにと、ほんの一回。それを聞き逃さないように俺はいつも窓際に居る。それでは窓を開けて顔をのぞかせていた時とそんなに変わらないのかもしれない。
「ユーリ」
 おはようと言い合って、郵便受けでは無く直接配達物を受け取る。それから貸していた本も。
 窓の向こうに伸ばした指の先が一瞬だけ彼の手に触れて、少し得をしたような気分になった。
 けれど、その後がいつもと少し違った。
「ありがとう。いつも喜んでるよ」
「え?」
 まるで第三者のような発言に、目を丸くする。聞き流す事が出来なかった。
 ユーリは自身の失言にすぐ気付いて居た堪れなさそうな表情を見せた。そしてしどろもどろに理由を口にする。
「あ、えっと……本な、読んでるのおれじゃないんだ。おれはどっちかっていうとそういうの苦手な方で……その、ごめん」
 彼の事を想って選んだ本だったので、彼自身が読んでいない事は少なからずショックを受けた。だが、すぐにその気持ちは霧散する。
 言うタイミングを逃して、言うに言えなくなってしまったのだろう。そして黙っている事に心を痛めていたに違いない。
「いいえ、気付いてあげられなくてすみません。本は誰が読んでいるんですか?」
 少しだけ安堵して強張った表情を和らげたユーリは、ポケットから紙の切れ端を取り出し、ボールペンで手早く文字を書き記した。
「おれの住所。暇な日に遊びに来てよ」



 携帯の番号も知らなかったのに、いきなり住所を渡されるとは思わなかった。一足飛びに何かを飛び越えてしまったような気がする。
 仕事中の彼しか知らなかったから、出迎えに出たユーリの私服は新鮮で。案内された住居も変哲のない集合住宅だったけれど、未知に溢れている。
 そして紹介されたのが彼女だった。
「娘だよ。本なんておれ全然分かんないから、買ってあげた事も無かったんだ」
 養女だと云う彼女は丁寧に挨拶をした後、満面の笑顔でお礼を言ってきた。今まで本をありがとう、と。
 本は全てユーリに向けたものだったけれど、その笑顔がユーリにそっくりだったから、彼女に読んで貰えただけで十分だと思った。
「グレタ、三冊目のお話しが一番好き。あれ全部コンラッドが選んでくれたんだよね」
「コンラッドさん、な」
「ユーリも初めから呼び捨てでしたよ」
「あ、あれは、あんたが良いって言ったから!」
 保護者らしくしたかったのだろう。しかし赤面して慌てるユーリを見たら、小さく笑みが零れてしまう。
「ユーリ、お茶何でもいい? お茶請けは?」
「台所に昨日買ったやつあるだろ、それ出して貰える?」
 分かったと言って、幼い音を立てながら駆けて行く。それを見送ってから訊ねた。
「わざわざ用意してくださったんですか?」
 しまったという顔をするから、分かり易い。隠し事が下手な人だとは常々思ってはいたけれど。
「好き嫌いとか分からなかったから、適当なんだけど」
 だからこそ、悩んで選んでくれた事が嬉しい。俺の好きな物を考えてくれた時間が。
 そして、そっと手にしていた紙袋を手渡した。
「一応、手土産ってやつです。後で二人で開けてくださいね」
「悪い……こっちから誘ったのに」
「いいえ。ユーリとグレタでないと意味の無い物ですから」
 疑問符を浮かべながらもユーリは受け取ってくれた。
 ソファに浅く腰掛けて、普段のユーリの姿を目に入れる。それは俺が初めて見る、彼にとっての日常。
 初めて声をかけた日から随分と経つが、未だ物語の中にいるような気分が続いている。揺蕩うような感情は決して不快では無かった。
「ねぇユーリ、この蓋開かないよ」
「ちょっと待ってろー」
 微笑ましい親子だ。一見兄妹のようだが、彼は娘の事を猫かわいがりして、いつも見せている顔とは違う顔を見せている。穏やかで包容力のある雰囲気も知らなかった。
「俺もあなたの子供になりたかったな」
 そう本気で言ったのに、ユーリは「何言ってんだよ」と呆れていた。俺は冗談にする為に苦笑を漏らす。
 蓋を強引に開けた為に飛び散った茶葉の掃除まで手伝って、ほんの少しだけ彼という人に触れた気分になった。



「次来る時は、プリンを持ってきますね」
 プリンが好きだとグレタが言っていたからだ。
 靴を履きながらそう言うと、済まなさそうな顔をするユーリとは違い、グレタはまた花開くような笑顔を見せてくれる。
 今にも抱きつかんとするグレタの頭を撫でて、そして陽が暮れる前にその家を出た。
 夕陽がいつもよりも美味しそうな色をしていて、すぐ横を通る川の音が心地よい。
 歩いてさえいなかったら目を閉じてしまいたい気分だった。今眠ったらきっと良い夢が見られる。
 ふわふわとした中を歩いていたせいか、後ろから呼び止める声に気付くのが遅れた。大声で、自分の名前を呼ばれていたのに。
 振り返ると、ユーリがサンダルをつっかけて手ぶらで追いかけて来ていた。
「どうかしましたか?」
「あれ、なんだよ」
「あれ?」
「絵本!」
「ああ」
 お菓子の入った手土産の袋に入れてきた。
 一冊はいつものようにグレタに。そしてもう一冊はユーリに。
「よりにもよって絵本とは、どういうチョイスだよ」
「苦手だって言ってたから、あれなら読むかなって」
「馬鹿にしてる?」
「いいえ。大人の絵本というやつです。良い話だから、読んで」
 そこまで言うと、ユーリの癇癪も納まった。寧ろ、文句を言って悪かったと肩を落とす。
「その、ありがとう」
 グレタと比べると素直でないお礼の言葉に微笑んだ。
「どういたしまして」
 突っ返す為に追ってこられたのかと一瞬思ったのが、手ぶらで本当に安心した。きっと嫌がらせだと言っても読んでくれただろう。そういう人だ。
 あなたといると、何もかもが新鮮で、目新しい物のように見える。
 朝露の美しさも、水溜りに映る空の色も知らなかった。あなたがそこにいるだけで、世界がこんなにも居心地の良い物になる。
「また明日」
 そう言うと、ユーリは笑顔で手を振ってくれる。それだけで明日がこんなにも待ち遠しくなるのだ。
 あなたも同じ気持ちであれば良いのに。そんな贅沢を考える自分が、とても幸せに思えた。




遠野さまからいただきました!
お誕生日にはコンユ+グレタが欲しいの。
って言っていたら本当にもらっちゃいました。
とっても爽やかなコンユです。
指先が触れるだけとか可愛すぎます。
親子しているユーリとグレタも可愛くてによによ。
この親子にコンラッドがこれからどんなふうに関わっていくのか考えると幸せな気持ちになります。
遠野さん本当にありがとうございました!

(11.06.01)

back